大会長挨拶

日本死の臨床研究会は、「死の臨床において患者や家族に対する真の援助の道を全人的立場より研究していくこと」を目的として1977年に設立されました。誰にも平等に訪れる「死」と「死にまつわる問題」に正面から取り組み、すべての人が人生の最期の時まで希望する生き方を実現できるよう、死をめぐる援助の在り方を追求してきました。

第46回年次大会は三重の地で開催されます。伊勢といえば、今では伊勢神宮のある伊勢市という限定された土地を指しますが、三重県の多くは元来伊勢の国でした。神宮で古来より継続されている営みとその根底にある思想には、自然と共存し日々の営みを通して実践する真の援助の在り方を示唆してくれるものがあります。「穢れ」という概念には「気が枯れる」という意味があります。「気が枯れる事」つまり「エネルギーの枯渇」です。身近な死に接したものは一定の期間お参りを控えるようにという教えには、感染症予防の概念がなかった時代には感染を持ち込まないため「不浄」とし、神域の出入りを避ける意味があったと推測されますが、それだけではなく「つらく哀しいことに触れ、気力を失ってしまっているひとにとって、その死に向き合い自分の気持ちを整理し、回復をしていく大事な期間」であり「自分を癒す時間が必要である」という気の回復や癒しに焦点をあてた援助の精神が根底にあると思われます。

「常若(とこわか)」とは、常に若々しい状態を保つという意味を持ちますが、老いる・朽ちるを避けるという解釈ではありません。森羅万象の中で老いる・朽ちる・死は自然の摂理です。いのちが有限であるがゆえ、断絶しないよう技術や知識を次の世代に伝承していくことで、常に新しい息吹とともに日々の営みを続けることができるという考えです。20年に1回行われる伊勢神宮式年遷宮もこの考え方に基づくものといえます。看取りのとき「息を引き取る」と表現するように、次世代が引きつぐと読むこともできます。大きな自然・長い歴史の中での一人のひととして、どう生きるか、何を受け継ぎ、次にどのように引き継ぐのか、は大きな命題のように思います。

いのちにまつわるつながりは、家族という血のつながりだけでなく、時の流れの中でのつながり、同じ時間を過ごすものとして社会の中でのつながり、場所のつながりなど様々さまざまあり、きっと、死をも超えたつながりになるでしょう。新型コロナ感染症の出現という未曽有の体験は日々の生活を激変させ、人間関係を分断し孤立・孤独をもたらし、死の臨床における苦悩や困難をより深く複雑にしています。
年次大会では、一人のひとが死を迎えるとき「誰と誰がどのようにつながると支えとなるのか」、いつかは死を迎える「私」としては「どのように生き、何をどのようにつないでいけばいいのか」を考える場になればと思います。

第46回年次大会が実りある大会となりますよう取り組んでまいります。
皆様からのご協力とご支援をどうかよろしくお願いし申し上げます。

大会長: 松原 貴子(三重大学医学部附属病院 緩和ケアセンター)
  辻川 真弓(鈴鹿医療科学大学 看護学部)